第45回《ボヘミアのピアニスト》B・スメタナ:ピアノ三重奏曲ト短調 作品15
今回紹介する作品はベッジヒ・スメタナ(1824〜1884)のピアノ三重奏曲 ト短調 Op15です。スメタナの作品の中でも比較的知られている曲だと思いますが(勿論「ヴルタヴァ」程の知名度はありませんが)今回はスメタナの室内楽作品のなかでも名曲と言われるこの作品をスメタナの生い立ちと共にご紹介いたします。
「チェコの国民音楽の父」で正しいのか?
それ以前のボヘミアは当時のオーストリアの皇帝を出していたハプスブルク家の属領でした。ですので「国籍」という面で見るのであれば、スメタナもドボルザークもオーストリアになります。現にドボルザークは57歳の時にオーストリア政府から「芸術科学名誉勲章」を授かり60歳で「終身上院議員」に選ばれています。
ですがそれを言い出してしまうと今の国の形で括ること自体に無理があると思います。となると、一番しっくりくる表記はやはり「ボヘミアの作曲家」となるのではないでしょうか?
リストへのあこがれ
ベッジヒ・スメタナはモラヴィア国境に近い東ボヘミア、リトミシュルに生まれました。父親はビールの醸造業を営んでいましたが大の音楽好きであったこともあり幼いころからヴァイオリンとピアノを習わせていました。1831年農場経営の為に一家で東南ボヘミアに移り住んでからはプロドの学校に通い音楽を専門的に習い始め、傍らで多くのピアノ曲も作曲して社交界へと出ていきました。
1843年には音楽家として身を立てるべくプラハに出て名教師プロクシにつき作曲も学び、西ボヘミアへの演奏旅行も催したようですが、これはあまり上手く行かなかったようです。そこで1848年、それまで2回その演奏に接し大いに共感を覚えていた大作曲家のリストに自作品を添えて経済援助を求めましたが、これもまた断られてしまったそう。ですがそこで得たリストの励ましにはとても勇気づけられたそうです。そして同年の5月、プラハで音楽塾を開くことになったのです。
1849年にはピルゼンで知り合ったカテジナ・コラージョヴァーと結婚。ピアニストとしても「リスト、ジョパン両面を備えたピアニスト」と、もてはやされしばらくは幸福の絶頂にありました。スメタナ自身も「作曲ではモーツアルト、ピアノ演奏ではリストを目指す」と言っており、ピアノの腕前はショパンの革命のエチュードの左手のパッセージをオクターブで弾けたというのでから驚きです。
幸福の絶頂から絶望へ
幸せの絶頂にあったスメタナでしたが、その後不幸が続きます。1851年から5年間にうまれた愛児の内ジョフィエを残して4人を次々と失い、妻のカテジナも結核にかかってしまいます。(その後1859年の4月にドレスデンで亡くなっています)まさに絶望のどん底にあったといえるでしょう。そして、そうした不幸が続く中で1855年の1月下旬に完成したのがピアノ三重奏曲ト短調 作品15でした。
ピアノ三重奏曲ト短調 作品15
曲はヴァイオリンがG線上で奏でる悲痛な下降音型による主題から始まります。まさに悲しみを叫ぶようなソロに続いて、ピアノとチェロが加わり苦渋の雰囲気はさらに増幅されます。続くチェロで始まる第2主題は安息を思わせる非常に穏やかな旋律ですが徐々に感情が抑制を失い爆発していく様はドラマディックです。再現部手前に挟まるピアノのカデンツァも絶品です。
第2楽章スケルツォは哀愁(或いは土臭さ)を感じる主部に対し2つのアルティナティーヴォが挟まるA=B=A=Cの形。このアルティナティーヴォ1が何とも美しい。愛情の籠った一度聴いたら忘れられない名旋律です。また、アルティナティーヴォ2は、はっきりとした意思を感じる力強い行進曲風ですが、夢を現実と信じ込もうとするかのような切なさも感じます。(緩徐楽章の無い作品ですがこの第2楽章がそうした役割を担っているように思います。)
第3楽章は舞曲風のプレスト楽章。情熱的な第1主題と優美な第2主題が交互に現れる形ですが、突如快活だった第1主題がテンポを落とし葬送行進曲を思わせる重々しい空気を生み出しますが、そこから一気に喜びにあふれたクライマックスへと突入していきます。最後は波が返して行くように落ち着いていきますが、この部分は後に代表作となる『ヴルタヴァ』の結尾部への繋がりを感じます。
と、思うがまま書き連ねましたが、全体を通して非常にドラマティックな作品です。それはベートーヴェンが苦悩を乗り越えて・・・といったプロセスを説いたように、スメタナの当時抱えていた苦しみを乗り越えようとするエネルギー、そん気持ちを感じることができる傑作だと思います。是非皆さんにも聴いて頂きたい一曲です。
晩年のスメタナとスメタナの耳
因みにその後スメタナですが、彼もまたベートーヴェンが辿った過酷な運命同様、音楽家としての生命線とも言える聴覚に異常をきたしてしまうのでした。スメタナが50歳の誕生日を迎えた1874年頃からはその異常はすさまじくなっていきます。ただ時々は聴覚が戻る事もあったようで、同年10月8日の日記では
「長い間ダメだったが、やっとまたオクターブの音が全部平均して聞こえるようになった。ただし右の耳はやはり聞こえない」
と記しています。そして10月19日に彼はドリーブのオペラ『王様のお言葉』を聞きに行った際すべての音程が識別でき聞き分けることができたようで、狂喜したスメタナは帰宅後ピアノに向かい、これが最後とばかり自作品やリスト、ショパンの曲を弾き続けたといいます。しかしそういった回復も短期間に過ぎず、1877年すなわち彼が53歳の6月からは一時的にも聴覚は戻らないのでした。
しかしこれも又ベートーヴェンのように、そういった苦境に立たされてから生み出された作品群はまさに傑作と呼べるものばかりで、『ヴルタヴァ』を含む連作交響詩《わが祖国》や弦楽四重奏曲第1番《わが生涯より》、3つのオペラや2巻の《チェコ舞曲集》など今でも親しまれている多くの名曲を残すのでした。